平凡な迷走

好き勝手好きに書く

「堕落論」を通じた「羅生門」の感想

芥川竜之介羅生門はご存知だろうか?

 

平安時代、荒れ果てた京で職を失い行き場もなく彷徨う下人が、遺体の髪からかつらを作ろうとする老婆を目撃する。初めは正義心からその姿に怒りを覚えるが、老婆の生きるためには仕方ないという言葉を聞き、老婆を組み伏せ着物を剥ぎ取り闇に消えた。ざっくりこんな話だ。

 

この作品を読み、道徳は人間のためでなく道徳自体の存続のために機能しているのだと感じた。

下人は初め「盗人になるよりほか仕方ない」と感じながらも勇気が出ずにいた。これはなぜか。道徳的に許されないことを下人はできなかったからだろう。しかしそこで老婆という道徳から外れた存在に出会う。下人はその姿に餓死を選択させるほどの強い怒りを覚えた。これは、下人は道徳を守ることで道徳によって命を失う可能性があったということだ。だが老婆の生きるためには仕方ない、つまり道徳よりも自分の命だ、という言葉を聞く。ここで下人は生きるために老婆の着物を剥ぎ取る。要するに、下人は道徳という鎖を引きちぎり、不道徳な行いをすることで生きる可能性を手にいれたということになる。

道徳を守っていても道徳が続いていくだけで、自らの命は道徳によっては保護されない。そうした感想を持った。

 

ここで、タイトルにあるように「堕落論」に結び付けていく。

僕は複数の作品を結び付けて解釈していく「合わせ読み」が好きなので、今後このブログではそうした読書法を積極的に取り入れていくつもりだ。

話が逸れた。僕は下人は「堕落論」を体現する存在の一つのように感じる。

安吾は「人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。」ということを指摘している。これは下人が荒れ果てた京(都の門が荒廃していることから警察機能が失われているのは明らか)という自由を許された環境において、道徳という限定により盗人になれず、道徳により餓死を選んだ姿に重なる。

また安吾は「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な近道はない。」と主張する。これは道徳を捨て生き延びようとする下人の姿そのものだ。

そして安吾は「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われなければならない。」つまり、旧来からの道徳から外れて新たな自分の道徳を獲得しなければならないと述べる。これから、「下人の行方は、誰も知らない。」という「羅生門」最後の一文が、下人はかつて誰も持っていなかった自分自身しか知らない道徳を獲得した、ということを意味しているように思えた。

 

時代を支配する道徳はだれが作るのか。それはおそらく支配者だろう。その支配が機能している間は、その道徳に従うことが生きる上で有利なことも多い。ゆえに道徳が道徳自身を守るという機能は人間を守ることにつながる。

しかしその支配が終わるとき、道徳は人間を守れなくなる。その時私たちは旧来の道徳を捨て、新たな自分の道徳を発見しなければいけないのだ。

 

この程度の稚拙な解釈でしたが、閲覧ありがとうございまいた。